since 2018.01.01

1991年生まれのライター/千葉/ボカロ、歌い手界隈中心

自由になりたい気持ち

仮面を被った僕はもういない

「僕はもういない」のAメロにもあるように、彼はデビュー当時は夢見がちな少年だった。しかし、アーティスト活動をしていく中で、周りから天才などと呼ばれるようになり、いつの間にか彼は"こうなりたい自分"像よりも"みんなのいう天才の自分"像を作り上げていくことに必死になっていった。まるで誰かに山頂まで登れと言われるまま、ただ我武者羅に坂を登り進めていくように。そこで残酷なのは、登ってきた跡を振り返っても無心であり続けたために、どうやって登ってきたのかを覚えていないということ。だからきっと「僕はもういない」で〈仮面は形さえ記憶に残っていない〉というのだろう。この仮面は彼の裏の顔=偽りの自分を表していると思う。天才というイメージに縛られ、自分らしくいられない日々は彼にとって残酷で、楽しい過去をお覆い隠すほどのものだった。つまり、彼はリスナーの要望に応えるべく、素敵な音楽を作り上げてきた一方で、"自分が自分らしく生きていない"ことにずっと不自由さを感じ、もがき苦しんでいたのだ。彼がひたすらに突き進んできた跡にはモクモクと闇が掛かっている。このままここにいれば、この先の道も闇に掛かっていく。闇は自分で振り払うこともできないくらいに大きくなってしまったからこそ、意を決して新しい道を進むことに決めたのだろう。自分らしい生き方を優先することはとても大切なことではあるが、そこには何かを手放すことに対する不安と覚悟が存在した上での決断ということになる。つまり、彼の人生における重要な決断なのだから、辞めることを無責任だとは言いきれないし、彼も安易に考えたわけではないだろう。Twitterでは「結局のところ、他人からどう思われているのかに執着し続けた3年間でした。」とコメントしている。辞めること自体は、"これからは自分の気持ちを大切にしたい。自分らしく生きたい"と思った素直な気持ちからの判断。今までの彼が仮面を被っていたのであれば、ここで仮面を外した時からが彼の新たなスタートとなる気がする。

 

リスナーとして

私たちリスナーが本当の彼の心の闇を確信できたのは、彼がアーティスト活動を辞めると発表した時からであり、彼の心が感じていた闇の期間は少し前からの3年間だ。今の彼の闇っぽさを感じさせるTwitterの呟きは、少し前の期間の彼の感じていた気持ちだ。リスナーが彼の本当の闇に気付いた今この時でさえも、彼の心には消えない深い闇が残っている。しかし、それはもう葬りたい過去の話であり、今の彼の心には僅かながらも恐らく新しい未来への光が差していると思う。過去の隠していた気持ちを暴露することで過去を葬ろうとしているように思える。アーティスト活動は今すぐに辞める訳では無いが、もう既に彼は新しく"こうなりたい自分"像を描き始めているのかもしれない。だからこそ、残りの彼のアーティスト活動では彼を優しく見守るのが彼にとっていいことなのではないかと思う。

 

結果的に羨まれる

当然ながら将来どうなるかとかは誰にもわからないことだが、やりたくないことをやり続けるよりも、やりたいことをやると決意した人には芯があり、かっこいい。やはり彼はここでも他人から羨まれる行動をしているともいえる。才能がある上に勇気を持った行動をとることができる人だからこそ、他人に嫉妬される。例え、才能があってもそれを隠したまま生活していれば、誰からも羨まれることはないだろう。寧ろ誰もその才能に気づくことはないのだから。才能の先にアーティストとして行動してしまったからこそ、羨まれる存在となるのだ。だから、彼が押しつぶされてしまったのは才能の上に勇気ある行動が重なり、極限まで彼を彼自身が支配してしまっていたからではないかと思う。しかし、勇気ある行動は悪いことではなく、それを見た人が何らかの影響を受けて「じゃあ私も動こう」となることだって沢山ある。自分のやりたいことをやるといった彼の言葉から励まされる人だっているだろう。物事は表裏一体ではあるが、いずれにしても彼の前向きな姿勢で表す行動は他人から羨まれるものに行き着く。

心の内をさらけ出した「メリエンダ」東京・TSUTAYA O-EAST公演

8月16日にEveによる「メリエンダ」の東京・TSUTAYA O-EAST公演が行われた。

 

今回は過去のEveのライブと比較すると、演出面で様変わりしており、ライブがスタートする開演前からファンをワクワクさせるアーキテクチャが施されていた。観客は最初から会場のステージ側の大きなディスプレーに皆釘付け。そこにはEveのオリジナル楽曲のMVに出演してきたひとつめ様などのお馴染みのキャラクターが個々に映し出された。


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ある家の中で、少年がソファーに寝転がったり、キャラクターがシャワーを浴びたり、掃除をしたりなど、映像はシーンごとに移り変わっていく。


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誰かがインターホンを鳴らしても、少年はソファーから離れることなく、更にはお菓子を手に取る場面もあり、扉まで歩いていくのがとても億劫である様子が窺える映像となっていた。



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まだEve本人は登場していないにも関わらず、お馴染みのキャラクターが登場する度に会場内にファンの歓声が上がるという異様な光景でもあった。開演5分前になると、また新たなシーンが出現し、またもや誰かがインターホンを押す。すると、先程の少年がやっと立ち上がり、扉を開けるという展開に。

暫くすると突然、天候が雷雨に見舞われ、その雷の音にあわせて、観客の腕についたLEDリストバンドが白く光り出す。音と光の見事な共鳴は、歌の始まりがもう近いことを知らせているようだった。

その後、トーキョーゲットーに出演するキャラクターが音楽と重なるように共に映し出され、トーキョーゲットーからスタート。

イントロが終わった途端、画面のMVのカラーが少し薄くなり、画面と入れ替わるようにして(正式には入れ替わらないが)Eveが画面の裏側の中央に現れた。そして、そのままEveはトーキョーゲットーを歌唱した。


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そして、ステージ側からの抑えきれない気持ちを爆発させるように幕が下ろされ、Eveとバンドメンバーが登場。そして、「アウトサイダー」を披露。

その後も定番の「ナンセンス文学」、「ドラマツルギー」を含めたロックテイスト溢れる楽曲を怒涛の勢いで歌い上げていく。

「僕は幼少期のことをよく覚えていて、その気持ちを忘れたくないという気持ちで作りました」と哀愁を漂わせ、メロウな楽曲である「ホームシック」も歌唱。暖かみのあるメロディと優しい歌声が会場全体に響き渡り、観客を魅了した。

 

今回のライブで特別印象に残ったことを挙げるとすれば、それはEveが自身の性格について少し触れた点だろう。

「結構、闇のある楽曲を作っているので、Eveって闇を抱えている人なのかなーとか思う人もいるんじゃないかなと思います。

僕はみんなからゆるいとかふわふわしてるとか言われることが多いんですけど、実際はそんな根っから明るい方ではなくて...どちらかというとネガティブなんです。ネガティブな人間なんです僕。」と真摯な表情で観客に言葉を放つシーンがあった。

ちなみに、昨年にリリースしたアルバム『文化 』は、闇ともいえる部分を楽曲により晒すことで、今までのEveの可愛い印象をEve自身が大胆に覆したともいえる革新的なアルバムとなった。『文化 』の収録曲から間接的に自身の闇の部分を少しずつ曝け出してきたが、今回のライブのタイミングで、面と向かって自分の口から本音(闇の部分があることも)を伝えたのだ。それはもう勇気ある行動だった。

同時に、開演前のディスプレーの映像の少年の扉を開けるに至るまでの行動が、今回のライブでのEveが本音を話すところまでの行動に通じていたようにも思えた。少年が最後にやっと扉を開けたように、Eveもまたひとつ心の内を話すことで、心の扉を解放したのだろう。


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アンコールでは、可愛らしい楽曲である「惑星ループ」を披露。続いては、みんなを笑顔にさせたいという想いが詰まったような楽曲「お気に召すまま」を歌唱。アウトロでEveがフィンガースナップを鳴らす合図によって楽しい雰囲気が維持されたまま、この日のライブはフィナーレを迎えた。

 

そしてライブ終了後には、未発表曲が流れると同時に、両端の小さなディスプレーから11月4日に東京・新木場STUDIO COASTで東名阪ツアー「メリエンダ」の追加公演を実施することが告知された。

 

Eveの内に秘められた想いがやっと解き放たれた瞬間は感動的で、またひとつスターダムに駆け上がった瞬間に立ち会えたようなライブだった。

次回の追加公演はEveのライブ史上、最大規模の会場で開催される。ますます進化を遂げるであろうEveに注目だ。

 

画像:EveのTwitterより

 

 

 

持ちつ持たれつの関係性で互いの力を最大限に発揮したDoctrine Doctrine 第2弾の京都ライブも発表


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7月21日に宮下遊とseeeeecunによるDoctrine Doctrineが東京・WWW Xで『Darlington』発売記念ライブ"Conference"を開催した。

宮下遊は、名前の「遊」の意味そのものを思わせるように自身の声と遊ぶのが得意だ。声色は楽曲ごとに変化させ、透明感があり美しい。また、seeeeecunはボカロPだが、一方でサラリーマンを兼ねている。2000年代UKロックの影響を受けた彼はロックならではの耳から離れないような中毒性ある楽曲を作るが、特に現代の日本の裏社会を包み隠さないような剥き出しの歌詞が目立つ。だからこそどちらかといえばアウトサイダーを支持するものたちに鼓舞されるのだろう。

 

今回のライブでは、観客600人が集まったのだが、宮下遊、またseeeeecunにとっても、予想を超えた人数だったという。会場が600人の観客でいっぱいに埋め尽くされたのは6月20日にリリースされた1st アルバム「Darlington」で宮下遊が持つ声の中毒性とseeeeecunの中毒性ある楽曲の世界観がうまくマッチし、深度の高いサウンドを生んだからなのだろう。ちなみに宮下遊の声における中毒性のことをファンのあいだでは「遊毒性」というらしい。

 

seeeeecunの働き方を聞くと"羨ましい"やら"忙しそう"やら"辛いならサラリーマン辞めちゃえば?"など、色々と思うことがあるだろう。この件についても少しだけ触れたい。「Darlington」に収録され、7月20日にMVとしても公開され「Darlington」の中で1番周りからの評価が高かった「モディファイ」は、実はseeeeecunが本当に仕事が嫌になった時に作った曲だという。日々刻々と時間と身を削られるようなサラリーマン生活をしているからこそ生まれた楽曲「モディファイ」が世に出て、このように立派に独り立ちしていくのであれば、サラリーマン生活も悪いことだらけというわけではないのではないか。むしろ元はといえば、サラリーマンだからこそ生まれた楽曲なのであって。つまり、2足の草鞋を履くことは、人生を輝かせる秘訣を握っていることもあるといえるだろう。

 

 開演時間まで流れていたBGMが止まるのと同時に、照明が静かに落とされる。ステージの大画面ディスプレーにはユニット名とDoctrine Doctrineのマスコット(宮下遊、seeeeecun)が表示され、「In Darlington

」の深い振動音からスタートした。会場が心地良いグルーヴに包まれた後には、歓声と共にサポートメンバーのマロン菩薩(G)、松ヶ谷一樹(B)、Sugisaki Naomichi(Dr)、そしてseeeeecunと宮下遊が登場。

「ヘレシー・クエスチョン」では、宮下遊の畳み掛けるような会話調の低い声が印象的なのだが、その心地良いフレーズのところでは「生で聴けた!」といわんばかりに、観客の喜びが熱となって一気にステージに上る。その熱を受けて、声に宮下遊らしさを発揮してきたのもちょうどこのあたりだ。ここから宮下遊が本気で声の遊びに入る。
タワーレコード限定販売の「あのプリズムによろしく」も披露され、透明感ある声が綺麗に伸びた後は、心にジワっと沁み入むメロウな楽曲「シニヨンの兵隊」へと繋ぎ、丁寧に観客の心に染み込ませていくように優しい声で歌唱。「バーバリアン・シネマズ」では、カラフルな照明がステージを照らし、まるでダンスフロアのような会場に。次はシャボン玉の泡が楽しそうに飛ぶような歌声で、会場全体を魅了し、会場にいる大半の人が思うままに身体を揺らし、楽曲を心から楽しんだ。

 

MCに入るとseeeeecunが今にも溢れてしまいそうな素直な気持ちを格好など付けずに思いのままに客席に向けて飛ばす。
「面白い!やばい!楽しい!」

すると宮下遊が「せめて中学生レベルの感想にして!」と突っ込みを入れ、途端に笑いが沸き起こる。ライブ中のMCでは、本当にうまい具合にseeeeecunの話の最後に逐一宮下遊が突っ込むので、コントのようになり2人の息が合っているのが目に見えてわかった。

 

力強い声から始まった「ヌギレヌ」の後には15分の休憩を挟み、後半戦がスタート。


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 「Bells」「脳内雑居」そして宮下遊の味をも知らしめるようなシックな楽曲「モディファイ」という流れだったが、「モディファイ」には強い思い入れがあるということで、seeeeecunは「この曲は本当に周りからもお客さんからも評価が高くてね。モディファイのMVは絶対作ろうと思っていて、作りました。」と話し、宮下遊と共に、MV制作に関わった関係者と観客に向かって礼の言葉を述べた。肝心な歌については、CDの音源でも十分美しいのだが、それをも確実に超えていた。また、サビ前の"マリア"という部分は宮下遊自身、歌うのに結構苦労した部分だったとのことだが、CD音源でないというのにも関わらず、"遊らしさ"を出し、観客の想像キャパを超えていた。人は一言うまい言葉を掛けられただけで、心理的に心を許してしまうことがある。その感覚と似ていて、"マリア"といわれるだけで、心を許してしまいそうになるようなそんな言葉の破壊力がたった3文字に宿っていたようだった。宮下遊からは、そのようなギルティ的な匂いが香ってくる。

中でも、この日恐らく1番盛り上がった楽曲は「雲散霧消」で、サビの最後の宮下遊のはっちゃけたような"Ah!!"という甲高い声が好きという人は多い。というよりかファンなら間違いなく好きだろう。同じ空間にいるからこそ聴けるその生の声に観客も狂ったように吠えるという構図で出演側、客席側の互いの熱が確実にヒートアップしていった。披露後には、seeeeecunが「誰が作ったの?この曲かっこいい!!」と「雲散霧消」を自賛し、その後には「最後は、みんなに歌ってもらいたい歌を披露します!」といって「ローファイ・タイムズ」を披露。人の不幸は蜜の味を歌ったような楽曲で不思議と聴き込むほどに深みにハマっていく。こちらも「雲散霧消」に負けじと盛り上がり、観客の「ローファイ・タイムズ!」という声がひとつになり会場全体に響いた。

 

MC中にはseeeeecunが「オープニングで、ディスプレーにさなぎ(みつきさなぎ)のアイコンが映った時"ついにここまで来たか"」と改めて実感したと、涙ぐむ場面もあった。しかし、バンドメンバー紹介時にseeeeecunがseeeeecunと宮下遊に対する観客の声のボリュームを比較してしまい、「あ、負けた。もっと声が欲しいです!」といって、みんなで(宮下遊も)「seeeeecun!!」と盛り上げる場面もあり、まだまだこれからだ、という気持ちになっていたのだろう。きっと彼は自身の素直な一面により、どんな悪なことでも包み隠さず歌にしてしまうのだろう。一方で宮下遊は歌唱しながらseeeeecunをたまに確認しては、落ち着いた楽曲では丁寧に1曲1曲を観客の心に染み込ませるように歌い、ロックチューンでは、力強い声色に変えて歌った。またseeeeecunが話した後には間を置くことなく、突っ込むことでseeeeecunをフォローし、観客を楽しませていた。互いがその場にいて、Doctrine Doctrineが成り立つ。

 

アンコールは「テイクアウト・スーサイド」で締めくくり、サポートメンバーとseeeeecun、宮下遊の順にステージを去った。

その後には、大画面のディスプレーに「モディファイ」のMVのイントロ部分が流れ始めたが、すぐに画面が切り替わり9月22日に京都・京都FANJでライブ『Darlington』発売記念ライブ"Conference"Vol.2を開催することが告知された。

その瞬間に「えーーー!!!やばい!!絶対行く!!」といった声が上がり、最後まで熱が冷めることなく、この日のライブは終了した。

 

 

 

Doctrine Doctrine「『Darlington』発売記念ライブ"Conference"」2018年7月21日 WWW X セットリスト
01. In Darlington
02. ルサンチマン・クラブ
03. ピルグリム
04. ヘレシー・クエスチョン
05. あのプリズムによろしく
06. ホワイトダウト
07. マイ・ディスカバリィ
08. シニヨンの兵隊
09. Barbarian
10. バーバリアン・シネマズ
11. ヌギレヌ
12. Bells
13. 脳内雑居
14. デジャヴ・ラブユー
15. ダンスワナビーダンス
16. モディファイ
17. ギルティダンスは眠らない
18. 雲散霧消
19. ローファイ・タイムズ
《アンコール》
20. テイクアウト・スーサイド

遊び心を融合させたステージで天月-あまつき-、Eve、Souと会場に海と夏の夜空が行き交いした1日。


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天月-あまつき-主催のサマーパーティー2018
~ぼくらの家へようこそ!は7月20日にEve、Souをゲストに迎え、千葉 松戸 森のホール21で開催し、8月12日には志麻、となりの坂田をゲストに迎え、大阪 オリックス劇場で開催することになっているのだが、今回はEve、Souをゲストに迎えた千葉 松戸 森のホール21公演の夜の部の模様をレポートする。


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赤いカーテンの幕が開くとそこには遊び心満載のステージが用意されていた。ソファーに大きな浮き輪3つ。棚には、6月27日にリリースされた天月-あまつき- の3rd Album「それはきっと恋でした。」のCDや、テディベア、写真額縁などが収納され、まるで、バラエティー番組で見た事のあるような設定でありながらそこは夏の海を連想させた。


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3人の「太陽系デスコ」からスタートすると、会場のボルテージが一気に上がり、そのボルテージを保つように天月-あまつき-が「かいしんのいちげき!」を続けて披露。

EveとSouからは「明星ギャラクティカ」「彗星ハネムーン」とナユタン星人中心の楽曲が披露され、テンポの良いリズムに観客側も心踊らせていた。2人が歌い終わるとEveが捌け、Souのターン。「メルティランドナイトメア」だ。次にSouが捌けてEveのターンで低い声が心臓に心地よく響き渡るような「ガランド」を披露し、リレーのように次々と楽曲を歌唱していく。

 次にSouが登場したのだが、Souは「じゃ〜ん」とサングラスを掛け始め、Eveが「パリピの感じでね」といって、音をうねらせたようなイントロから始まる「い〜やい〜やい〜や」を2人で披露した。

そして、Eveの低音とSouの高音をぶつけ合うような「ロキ」のイントロが流れ始めると客席から歓声が湧き上がり、それに応えるように2人は完璧に「ロキ」を歌いこなした。

 Eveの「ナンセンス文学」では、天月-あまつき-が描かれた扉から天月-あまつき-が登場し、Eveと天月-あまつき-の2人で「ナンセンス文学」を披露。「ラッタッタ(ラッタッタ)」の部分ではEveも動画のひとつめさま(MVに出るキャラクター)と同じように手拍子する。それに合わせ、観客も手拍子する。皆が手拍子し合う瞬間に観客席に波が打ち寄せてきたようだった。

 

後に、天月-あまつき-だけがひとり残り、3rd Album「それはきっと恋でした。」に収録されている「きみだけは。」「きっと愛って」と「Star Man!!」を歌唱し、天月-あまつき-主催のライブに来ていたんだったんだとふと思い出させるような空気の中で、天月-あまつき-の存在感がより増していく。天月-あまつき-は楽曲を涼しげな表情で見事に歌い上げていき、時々太陽のような笑みで観客に笑いかけては、サビで片腕をピンと上に向かって振り上げた。ディスプレーの映像と天月-あまつき-の姿がマッチし、流星のようにあっという間に楽曲と時間は流れていった。その後には、天月-あまつき-のMCが入り「始まる前、実は会場裏では3人で胡座をかいて待ってました」と話していたのだが、それはまるで海を前にしてウキウキしながら波が立つのを待って座り込んでいた天月-あまつき-、Eve、Souの姿を想像させた。歌い手側と観客側がそれぞれ音に合わせ呼応する中で観客の踊らせる腕が波のような動きを作り、互いの熱がヒートアップすれば、その波を待ちわびていた天月-あまつき-、Eve、Souがやっと海の波に乗っかり、更に会場が盛り上がっていくような絵が浮かんだ。観客が3人を呼び込む海となり、共に3人もその波立つ海を待ちわびて、しっかりとそれぞれの目に、記憶に、海の様子(観客の姿)を焼き付けているのだ。

 

天月-あまつき-が「今日はひとりひとり椅子が用意されてます。次の曲はバラード曲なのでみんな座ってください」と伝えるとその瞬間に観客は皆自分の後ろを確認。その様子を見て「みんな椅子確認しなくてもちゃんとあるからね!爆弾なんか入ってないから安心して!笑」と話し、会場に笑いが沸き起こる。そしてスッと会場内が暗転し、天月-あまつき-だけを照らすように頭上から白いスポットライトが当てられ、バラードの楽曲「夜明けと蛍」を披露。 先程までは海辺で無邪気に駆けて笑う青年のような天月-あまつき-だったが、程よい暗さとで、ステージ上は一瞬で夏の夜空を表現していた。今にも寝静まりそうになる心地よい歌声の中で危うく眠りかけた観客は大サビでは天月-あまつき-の力強い歌声で起こされただろう。

  

会場全体が夏の海、夏の夜空を十二分に楽しんだ後、後半ではビンゴ大会が行われ、ビンゴになった人にはメンバーが選んできたPS4などの豪華商品がプレゼントされるというお茶の間的な企画もあった。メンバーとリーチ組がじゃんけんをする時もあったが、2000人とビンゴをやるなんてなかなか無い経験だろう。ステージにしても、ビンゴ大会企画にしても、よく楽しませてくれる。

 

最後の方のMCでは、天月-あまつき-がEve、Souに「目標とかありますか?」と質問し、EveはEveらしい応答で「なんかある?」と漠然にSouに質問したため、会場にゆるい笑いが沸き起こった場面もあった。天月-あまつき-は自身が今後初の武道館公演も控えていることを話し、Eve、Souの2人も今年の夏に蒼のツーマンライブ、Eveはワンマンライブを控えていることを話した。

 

全ての楽曲を歌い終えると、3人は自分の絵が描かれた扉の前まで駆け上がり、まず、Souが扉を開けてニコニコしながら扉の奥に姿を消し、続いて可愛らしく手を振ったEveが扉を開け姿を消す。最後に天月-あまつき-が扉を開け、ひょっと顔を出し、「じゃあね!」といってパタンと閉め、この日のライブは終了した。


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Darlington/Doctrine Doctrine ほぼ200字レビュー

ドープな声を自由自在に操ることで七変化する歌い手、宮下遊と2000年代UKロックの影響を受け、現在サラリーマン兼ボカロ制作を手掛けるseeeeecunによる初のユニットアルバム。動画サイトで話題の「脳内雑居」「ローファイ・タイムズ」「雲散霧消」も収録。酸いも甘いも噛み分けたようなseeeeecunの詞に、宮下遊が声のマジックを施すことで楽曲ごとに生きた感情が宿ったようなエッジーなアルバムになっている。
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階段と隣合わせのエスカレーター

「自分明日休みなんですけどー、今日一緒に飲みませんかー?(同僚)」「疲れてるから、ごめん(私)」

こんな電話のやりとりから、お互いの気分について、真逆的なもの(上下)を感じ、一瞬で私の脳はその違いを階段の上りと下りに変換していた。階段を上っていく(テンションも上がっていく)のが同僚で、階段を下りていく(テンションは下がっていく)のは私。確かに仲はいいけれど、いま、疲れ切っている私からすると、同僚の楽しそうな声はあまり欲しくはない。一瞬で、気持ちに明らかな差が生まれていくのがわかった。

とてもブルーな感情になっている私には、誘ってもらったことへの嬉しい気持ちも芽生えず、それよりか、"今は誰かと飲んで4時間程度を過ごすより、一昨日に買ってウォークマンに入れたCDアルバムの曲を一秒でも早く聴いていたい。"という篭もりがちな気持ちの方が強かった。今までであれば「行くー」と答えていたはず。気分屋ということもあるけれど、最近の頻繁な飲み会のおかげで、飲み会が好きだなーと思っている私が誘いを断るなんて、割と珍しい。最近は割と疲れているから、仕事終わりに、ジムへ直行しようというような有り余った元気もない。

2人の真逆な感情については、階段で例えるより、隣合わせの上下逆のエスカレーターにそれぞれがいるといえば、少しはわかりやすくなるかもしれない。エスカレーターのそれぞれにいる2人は、顔を合わせることはあるけれど、永遠と居場所が一致することはない。無駄に天井も底も見えないまま上り下りしていく。だから無駄な道というものは、意外と長く歩いてしまって後々振り返って後悔することがある。 ただ、もし階段がひとつしかなくてその上でのやりとりならば、いつか2人の居場所は一致する。運命的なものも、ひとつの階段をきっかけにやってくるのだろう。案外上手くいく時は、階段で物を落とした人にすぐに声をかけることができるように、トントン拍子に進むことが多い。

決めつけてしまうのは、もちろんいいとは言えないけれど、ダラダラ時間だけが過ぎるのは勿体ない。

きっと2人はひとつの階段上ではなく、別のエスカレーターを上り下りしていく。そう思って、断ってしまっただけの話。

ないものねだり

自分を除いた周りの環境がみるみる変わってきたことに気付いてきた。

変わりたいと思って頑張ってきたつもりだったけと、ここ最近割と私は置いてけぼりな感情を味わっている。

虚しいことに、今日はこのままここにいても存在意義がないとさえ思えてしまった。

いざと言う時に頼れる人がいるひとたちとは違う。いざと言う時にはここにいる人達は当たり前だけど私を優先するわけがない。むしろ、良い踏み台にされて行きたい方向へ、遠くへ消えていくのではないか。全くもって悪い人たちではないけれど、私は自分を下げる。

どんなにその場所が楽しいとしても、その先には永遠の友以外のものであるのならば、一寸先は闇の状況に陥る。

人の不幸を願うことは根からない。結局は自分にないものを持つ人達は輝いて見えて、ただ、羨む心が生まれるだけの話。

そんなことが、頭で一瞬よぎってしまったのだ。だから空気を読んだふりをして店を出た。

「救われたい」と思う割には、ひとより救われないのは何故?ないものねだりは返って負の連鎖を引き起こすのだろうか。

 

今電車を待っている。

 

みるみる周りだけが変化して大人になって、私だけが子供のままでひとり取り残されたとする。そんな自分はまるで、例えてみるとしたら、刷新されない電車や椅子、壁のようだ。私はモノと同じ気持ちで今、変わっていく人たちを見ている。

モノは刷新されなければ、ずっと古くなっていく。モノから見える景色は歩く人達。姿も服装も変わっていく人達。それと、対称的な変わらないモノ。

変わらないモノが私で、歩く人達は私の周りの人達。そんなイメージが出来上がるのだ。 例えば、酷くいえばそんな感じ。

でも、私たちはモノではないので、モノから見た私はどうだろう。意外にも外見は新しくなる私を見て、新しくなっているように見えているのかもしれない。

刷新されないと変われないモノよりかは、私の方がまだ、マシなのかな。視点を変えるだけで案外、幸せだったりすることもあるの。

モノに感情はないけれど、感情がもしもあるとしたら、モノは今の私の感情なのかと思った数分。