since 2018.01.01

1991年生まれのライター/千葉/ボカロ、歌い手界隈中心

それでも続く未知

今に始まったことではないけれど、思春期の頃辺りからたまに心に穴が空いたような感覚を覚えることがある。

 

それは勿論、ある出来事を持って丸一日を台無しにしてしまうような、立ち直れないような、心苦しく悲しいことがあった時にやってくる感覚だ。一気に心をぎゅうと締め付けられるから、その後には、どちらかというと、ただの穴というよりかは、赤黒い穴ができているよう。

 

でも、ある時、未来の確証がない幸せを噛み締めた時に、大きな穴ではなくて、割と小さく、そして、至る所に無数に穴が空いていくような感覚を覚えたのだ。

 

例えるなら、無数の穴が四方八方に空いていく心は、針刺し。

針刺しは裁縫の際に、針を刺し、置いておくものだけれど、上から扱われる人の手により、後ろ、前、など関係なく針で穴を空けられてしまう。

 

外部要因が心の穴を作る原因だとしたら、なにも考えない人に空けられてしまう心の穴だとしたら、針刺しを扱う人の手と同じことだろう。心の外面から内面をぎゅうと搾るように、攻めるように、至る所に穴が空けられていく様相は、まさに生きた針刺し。

 

生きていて、心に穴が空くのであれば、生きていない針刺しよりも、辛いのではないかというふうにも思う。

 

その穴を抑えるために、心は今感じている幸せをセーブしようと試み始めるようになる。確かに生まれた幸せな感情を自ら、抑えることなど本当はしたくはないけれど、現実的に抑えざらぬを得ない状態なのだ。

 

セーブすれば、最高潮の幸せの位置からぐんと下がるわけで、しかも、一定の期間、その下の位置をキープし続ければ、幸せの感情は薄れていくに決まっている。無意識な記憶力の問題で、幸せの感情が薄れたのではなく、意識的にセーブしたことにより、薄れてしまった、故意だ。

 

セーブしたくて、感情が多少薄まったのに、やはりあの時感じた幸せを感じたくて、薄れた感情を取り戻す必要はあるのか。でも、取り戻さなければ、本当に感じた幸せ迄もが偽物になり、何事もなかったことになってしまう。幸せなことばかり転がった人生ということではない限り、それをなかったこととするのは、心底勿体ない気がしてならない。

 

でも、現実的にはやはり少しセーブしつつ、前へ進んだ方がどう考えても身のためだ。全ては自分に降り掛かってくるものだから。この境界線が難しい。

 

自分の感情に嘘をついて、生まれた感情をまたひとつ、殺してしまうのか、それとも、犠牲を持って真実とするのか、自分だけの問題ならまだしも。

 

そんな時でも、そんな幸せを思い出した途端には、いつもは穴が空くはずの部分が不思議なことに心地良いほどの熱を帯び始め、そこを中心として出来上がった炭酸がしゅわしゅわーと弾けていく。

自由自在に辺りを散らばれるようになった炭酸の粒子が至る所を彷徨いながら、躰の端、腕、脚まで行き渡る始末だ。

 

心の穴が空く感覚は何度もあったはずだけれど、こんなに満たされることは果たして、あっただろうか。まるで、幸せの炭酸だ。

 

ああ、やはり、今は、素直にこの幸せな感情に浸っていたい...。いつかは、単純に、幸せを噛み締めることの出来る日が、到来することを願いつつ。