since 2018.01.01

1991年生まれのライター/千葉/ボカロ、歌い手界隈中心

さよなら、グッピー

ーーそうなる運命だったんだ。

 

 

わたしの瞳に映っていたのは、モノクロの世界。身体が一瞬で凍えるような感覚は、いまでも残っている。

 


グッピー同士が重なり合っては、未来へと繋げるための素敵な思い出を創造していたあの頃……。

 


その勝者にも見える大群にうまく追いつくことのできなかったわたしはひとり、そこから零れ落ちた。それからは、ただただ、彷徨いながら、誰にも気づかれない波の中で泣いていた。

 


大切と呼べるものもなく、何を信じればいいのかすら、わからなくなってすべてを諦めたそんなわたしの目の前に突然現れたのは、奇跡ともいえるに等しいブルーグラスだった。

 


それは、叶うはずのない出会い。ふと思い出した悲しい過去に沈み込みそうになると、いま起きているすべてをなかったことにしようとした。

 


それでも、わたしの中に芽生えた思いの強さを抑えることができなかったのは、なにもかもを諦めようと決めてバリアされたわたしの心を砕いていくパワーを彼は持っていたから。

 


誰かに大きな愛を与えられたことのないわたしは、彼に出会って、自分を大切にしてくれる相手がまだ残っていたことを知った。究極の理解者である彼とは、確かに心が通いあっているというこれまでになかった実感がある。

 


グッピー属で大きく派手な尾びれを持ち、鮮烈な色を放つ彼と、似たもの同士ともいえるフラミンゴのわたしには、たくさん共通点があった。それは、例えば、生まれてきてからいままでに同じ場所を通ったことがあることだったり、少し刺激のある味が好きだったりーーだからこそ、自然に、ふたりは重なり、ダンスをするようになった。ときには、お互いの異なる価値観が凶器になりかねない時もあったけど、理解を深めていく中で、ふたりが離れることは、不思議なことに、一度もなかった。その過程で感じる気持ちは、わたしにとっては、生まれてはじめてのもので、もしも、そこに名前を付けるとするなら、“幸せ”という言葉が、単純ではあるけれど、なによりも、似合っていた。

 


でも、わかっていた。いまは、たくさん一緒に居られても、いつかは、彼が、わたしから離れて遠くへ行ってしまうことを。

その予兆は、何度かあって、わたしを少し寂しくさせた。

 


最初から知っていたことだけど、実は、彼には、もうひとつの暮らしがある。

 


それでも、わたしと彼は、海底に向かって泳いだ。底へ底へと。ふたりなら、どこまでもいけるんだと、夢心地で、一緒に潜った。

 


…潜った底に見える巣穴。そこにわたしの知らない彼の暮らしがあるという。

でも、彼は普段から、その詳細に触れることもなければ、その巣穴に連れて行ってくれることもない。

 


ふたりでいると、その巣穴の存在に気付くことはないほどに、幸せな日々。だから、わたし、ひょっとしたら彼も、普段は、その巣穴の存在を忘れている。

 


ある日、突然何年振りかの大型の台風がやってきて、波は大荒れ模様。少し前の予定としては、この日も、ふたりで楽しく、泳ぐはずだった。

 


でも、彼は、わたしに「今日は巣穴の中にいるから、会えない」と言った。

それは、危険が迫った時に彼が優先するものが、その巣穴の中にあることを指す言葉だ。

 


巣穴の中には、一体、何があるのだろう。わたしの知らない彼。わたしの知らない生き物。わたしの知らない…。フツフツと浮かび上がってくるのは、いくつもの恐ろしい映像。連想が連想を呼んで、この身が震え上がった。ふたりの世界を超える世界が存在していることは、あまりにも、恐ろしい。岩の奥に隠れてしまいたい。

 

一気に闇に覆われた。記憶の中の彼も遠くなり、この泡にかき消されそうだ。

 

 

翌日、台風が去っても、彼は、巣穴に潜ったまま、わたしのいる場所へと戻ってくることはなかった。彼は、わたしを置いて、現実に帰ってしまった。

 

そこで初めて知る。ふたりの世界と巣穴の世界の両方があった時に選ばれるのは、わたしではないのだ、と。残ったのは以前に増した喪失感。ふたりの世界しか見ていなかったせいで、いまのわたしには新たな光すら見えない。


巣穴の存在がわたしの目の前に立ちはだかっては、みるみる風船のように膨れ上がってきて、最後は、溢れる涙を止めることができないままの小さくなっていくわたしを飲み込んだ。

羽生まゐごの「鬼の居ぬ間に」を中心に。

すでに、533万回以上再生されている「阿吽のビーツ」(YouTubeでは、2017年8月20日公開)をはじめとして、琴、三味線、笙、尺八、太鼓、摺鉦など和楽器の音を鳴らし続ける、羽生まゐご。

ボカロ界隈で和に特化して独自の世界観を生み出しているボカロPは果たして、ほかにいるだろうか。

これまでにも、和を用いたボカロ曲はあるにはある。しかし、それらは基本的にバンドサウンドが中心のもの。現時点で彼以上に和の音空間を打ち出しているボカロPは、正直のところ、いない。

和を駆使した羽生の音楽が、どのボカロ曲にも似ることがないことは、彼が、これから先のボカロシーンを悠々と渡り歩いていくことのできる意味を指しているのに他ならない。

「阿吽のビーツ」のほかに彼の動画で再生回数が高く、注目されているのは、257万回再生(9月19日現在)の「懺悔参り」、178万回再生(9月19日現在)の「ハレハレヤ」など。

羽生の唯一無二なサウンドに惚れ込んでいるアーティストは多い。例えば、歌ってみたシーンで歌ってみた動画を投稿している、Souやまふまふ。さらに、歌い手シーンから少し離れれば、昨年リリースしたアルバム『私的旅行』に羽生作曲の「蝶々になって」を収録したDAOKOもそのひとり。

続々と自身のファンを増やしている羽生であるが、9月12日には、昨年10月3日に1stフルアルバム『浮世巡り』をリリースして以来、待望の新曲、「鬼の居ぬ間に」を投稿した。

魔性のカマトトは主人公・カマトトにまつわるシリーズもの。今後さらなる広がりを見せるという。

第1話となる「鬼の居ぬ間に」のなかの主人公は、商店街に住むタバコ屋の娘・町子。


羽生のボカロ曲は基本的には、ボーカロイドをflowerとしており、荘厳な楽曲にその骨太な声が似合う。しかし、今回歌声を披露したのは、透明感のある生身の女性ボーカル(猫屋敷)。

なぜ、透明感のある歌声なのか、それは、「鬼の居ぬ間に」が、これまでの羽生の楽曲のサウンドと味が異なっていることが大きいように感じる。同曲は、柔和なピアノの音色に、琴や尺八などの和楽器が新たなメロディーを付加することで、より楽曲全体に滑らかさを生んでいるような、静謐で優しい楽曲。それだけに、軽やかなサウンドに似合う透明感のある女性の声色を選んだのだろう。YouTubeアカウントのほか、ニコニコ動画に投稿された同曲で、歌を披露しているのは、flowerではなく、声の優しい初音ミクボーカロイド、生身の人間の歌声にしても、サウンドに同居させたことが、安心感の与える居心地の良さを提供することに繋がったのだ。

また、時々、流れる琴の音色が、MVにも映る、雨の落ちていく音を表現しているようで、どことなく、切なさを滲ませる。

いままでの羽生の楽曲とは、物語の展開も、サウンドも、色を変えた「鬼の居ぬ間に」。

町子の次にスポットライトが当たる主人公は、誰なのか。

物語は続く。

こどもからおとなへ

子供の頃は夢を見ている。

それは、自分のなりたい人だったり、結婚だったり…

まだ手に届かないけど、それなりに憧れを持てるものに対して夢を見る。

 

大人に近付いてくると、やっと、その夢が実現するかしないかが目に見えてきて、夢を見ていた自分になれた人がいれば、結婚できた人もいる。

ちゃんと、大人になれている人とは、理想を理想のままで終わらせずに、理想を現実にするためにいま、手や足を動かしている人だと思う。

 

だから、いまだなにかに対して夢見がちすぎる傾向だったり、理想になるようにただ時を待つだけだったりしているなら、

まだ子供ということになるんだろう。

 

昔から理想が高く、夢見がちで、これじゃないと色んなことを蹴ってきた自分。いまはどう?

そんなことを考えていた。

 

日の出の波

普通の幸せとはなんなのか。日頃から周りの幸せに敏感な態度を示して生きてきた。そして、いまも、その態度は根深い部分にあって、何も変わらない。

周りの人々に見えていたものを、自分の中に見ることができるようになったのが、昨日の経験。

 

これは、私が憧れていた世界。想像していた世界。何も特別なことはなく、普通のこと。でもその普通が愛おしい。

いま、私は想像の世界にいるようで、現実にいる。やっと、私もいま一度手に入れることができた。

 

なぜか、心がざわめき始める。

 

フェリーに乗って、海の波立つところを見ていた。波を心に例えてみる。


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この上なく、幸せだと感じているいまの私。少し遠くの方から波が寄せてくるように、確かに幸せなるトキメキのような炭酸が心の中心めがけてやってくる。でも、その瞬間に、自分の根深いところにいまだに宿る外部を羨ましく思う気持ちと同様の、自分はどうせ上手くいかない、そんなマイナスにも似た感情が湧いてきて、せっかくやってきた幸せの波を押し避けてしまう。やがて、波の動きは行っては来てを繰り返すようになり、あるのは不安定な心だということを実感する。時に、幸せ、根は相対、ならば、いつまでも不安定。

波立つ海がそんな答えを私に教えるようだった。

 

幸せだと思っているのに、果たして本当にそうなのだろうか。

 

きっと、根本のマイナス部分をなくせば、不安定ではなくなっていくのだろう。でも、人は間違いなく、マイナス部分を持つことで心無しか安心する部分もあるように思う。

例えるなら、仕事。本当に嫌なことばかりだった。信じられない人をたくさん見てきた。でも、その怒りが、自分の活動の原動力になっていたことだけは確かだった。嫌なことがあるから、ほかで力を発揮できて、その経験は間違いなく自分を強くしている。マイナス感情は敢えての心の予防線。だから、いつまでも、この根の部分が消え失せることは無い。

いうてみれば、すべてのマイナス感情をとっぱらえた時というのは、想像力の終わりなのかもしれない。だから時々湧き出るマイナス感情はそのままに生かしていくが吉。

 

ということで、途中で感じる感情は波のように動きを繰り返していたわけなのだけれど、昨日を1日経ったいまから振り返れば、幸せという答えに尽きることに気付いた。なんやかんや、終わりが良ければ良しという結末になるのかもしれない。そう、思おう。

それでも続く未知

今に始まったことではないけれど、思春期の頃辺りからたまに心に穴が空いたような感覚を覚えることがある。

 

それは勿論、ある出来事を持って丸一日を台無しにしてしまうような、立ち直れないような、心苦しく悲しいことがあった時にやってくる感覚だ。一気に心をぎゅうと締め付けられるから、その後には、どちらかというと、ただの穴というよりかは、赤黒い穴ができているよう。

 

でも、ある時、未来の確証がない幸せを噛み締めた時に、大きな穴ではなくて、割と小さく、そして、至る所に無数に穴が空いていくような感覚を覚えたのだ。

 

例えるなら、無数の穴が四方八方に空いていく心は、針刺し。

針刺しは裁縫の際に、針を刺し、置いておくものだけれど、上から扱われる人の手により、後ろ、前、など関係なく針で穴を空けられてしまう。

 

外部要因が心の穴を作る原因だとしたら、なにも考えない人に空けられてしまう心の穴だとしたら、針刺しを扱う人の手と同じことだろう。心の外面から内面をぎゅうと搾るように、攻めるように、至る所に穴が空けられていく様相は、まさに生きた針刺し。

 

生きていて、心に穴が空くのであれば、生きていない針刺しよりも、辛いのではないかというふうにも思う。

 

その穴を抑えるために、心は今感じている幸せをセーブしようと試み始めるようになる。確かに生まれた幸せな感情を自ら、抑えることなど本当はしたくはないけれど、現実的に抑えざらぬを得ない状態なのだ。

 

セーブすれば、最高潮の幸せの位置からぐんと下がるわけで、しかも、一定の期間、その下の位置をキープし続ければ、幸せの感情は薄れていくに決まっている。無意識な記憶力の問題で、幸せの感情が薄れたのではなく、意識的にセーブしたことにより、薄れてしまった、故意だ。

 

セーブしたくて、感情が多少薄まったのに、やはりあの時感じた幸せを感じたくて、薄れた感情を取り戻す必要はあるのか。でも、取り戻さなければ、本当に感じた幸せ迄もが偽物になり、何事もなかったことになってしまう。幸せなことばかり転がった人生ということではない限り、それをなかったこととするのは、心底勿体ない気がしてならない。

 

でも、現実的にはやはり少しセーブしつつ、前へ進んだ方がどう考えても身のためだ。全ては自分に降り掛かってくるものだから。この境界線が難しい。

 

自分の感情に嘘をついて、生まれた感情をまたひとつ、殺してしまうのか、それとも、犠牲を持って真実とするのか、自分だけの問題ならまだしも。

 

そんな時でも、そんな幸せを思い出した途端には、いつもは穴が空くはずの部分が不思議なことに心地良いほどの熱を帯び始め、そこを中心として出来上がった炭酸がしゅわしゅわーと弾けていく。

自由自在に辺りを散らばれるようになった炭酸の粒子が至る所を彷徨いながら、躰の端、腕、脚まで行き渡る始末だ。

 

心の穴が空く感覚は何度もあったはずだけれど、こんなに満たされることは果たして、あっただろうか。まるで、幸せの炭酸だ。

 

ああ、やはり、今は、素直にこの幸せな感情に浸っていたい...。いつかは、単純に、幸せを噛み締めることの出来る日が、到来することを願いつつ。

夢見心地に惑う

これは夢なのかもしれない

 

憧れる、あの人たちは先を加味した現実を生きていて、わたしは一瞬の幸福でしかない不透明な現実を生きる

 

夢心地に浸っているということは、確かに夢のなかにいる

 

そして、哀しくも、その夢心地は永遠の保証はなく、突然消えてなくなる日がくるのも否めない

 

でも、実は消えて、なくなった訳ではなく、最初からあるようでなかった夢を見ていたから、消えてなくなってしまったような感覚になってしまうだけのことかもしれない

 

なにごとがあっても、できる限り、夢を見たいのが人の本心

 

いまではなく、過去は全て振り返れば、夢のように思えてくる

 

なんだかんだ、現実だった過去も夢にすり替わっていく

 

現実を見るよりも夢を見るのが心地良いのは、日頃から夢に覆われた生活をしているから

曇天下の広がる海から

冷凍庫のなかのように冷えた空気、風、聳え立つ草木の匂い、自然、曇空、下に見える街 真っ直ぐに見えるのは壮大に広がる緑色がかった波立つ海、手前の海とその奥の海の間は二重層、奥は手前よりも深緑色。

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ずっとその先を見ていると、自分がいかに海から見たらちっぽけな存在ということに気付く。人は小さい。

海ではないけれど、海を越えた海外に行くと知れるのは 世界は広い レストランでは話しかけるタイミングさえも難しいと思えるほどにみんな殺伐とした感じでせっせと動いている なにより周りの目を気にしない大胆に行動している ということ。

それで、そのあと、日本に戻ったときに思うのは、日本人は丁寧すぎるほどに丁寧 水だって言わずとも無料で持ってきてくれる 大胆に行動する人は少ない レストランの人にせっせと動くイメージはあまりない ということ だから、日本で住むのが当たり前になると確かに居心地はよい。けれど、海外で見たあの大胆で周りを気にしない環境からは離れることになるから、いつの間にか肩身の狭い生活を強いられ、知らないうちに圧迫されている気持ちになるもの。

時間の経過とともに、海外で広くなっていたはずの視野は狭くなっていく。

そうなると、また海外に行ってあの時感じた価値観を求めに行きたい、そう思う。

でもあの頃のようにしょっちゅう海外に行くことができるわけではないから、海を見たのはとても、よかった。大したことではないけれど、普段感じない自然を感じて、海からインスピレーションをもらえた気がした。

海を越えればきっと海外だから、一瞬視野が開いた感覚になる。自分が考えていることは自分にとっては大きなことかもしれない でも、世界は、やはり広いから、世界単位で考えると、同じ悩みが小さく見えてくる。世界の広さは余裕を与えてくれるということ。絶対に自分主観に考えてしまうよりも世界(俯瞰の目で)から見た、自分を考えるほうが余計な重荷にならなくていい。

ほかにも、感情に左右されやすい時に誰かの言葉が、自分の感情をセーブしてくれる時もある。

その誰かはある意味で、世界の役割を果たしている。