since 2018.01.01

1991年生まれのライター/千葉/ボカロ、歌い手界隈中心

ないものねだり

自分を除いた周りの環境がみるみる変わってきたことに気付いてきた。

変わりたいと思って頑張ってきたつもりだったけと、ここ最近割と私は置いてけぼりな感情を味わっている。

虚しいことに、今日はこのままここにいても存在意義がないとさえ思えてしまった。

いざと言う時に頼れる人がいるひとたちとは違う。いざと言う時にはここにいる人達は当たり前だけど私を優先するわけがない。むしろ、良い踏み台にされて行きたい方向へ、遠くへ消えていくのではないか。全くもって悪い人たちではないけれど、私は自分を下げる。

どんなにその場所が楽しいとしても、その先には永遠の友以外のものであるのならば、一寸先は闇の状況に陥る。

人の不幸を願うことは根からない。結局は自分にないものを持つ人達は輝いて見えて、ただ、羨む心が生まれるだけの話。

そんなことが、頭で一瞬よぎってしまったのだ。だから空気を読んだふりをして店を出た。

「救われたい」と思う割には、ひとより救われないのは何故?ないものねだりは返って負の連鎖を引き起こすのだろうか。

 

今電車を待っている。

 

みるみる周りだけが変化して大人になって、私だけが子供のままでひとり取り残されたとする。そんな自分はまるで、例えてみるとしたら、刷新されない電車や椅子、壁のようだ。私はモノと同じ気持ちで今、変わっていく人たちを見ている。

モノは刷新されなければ、ずっと古くなっていく。モノから見える景色は歩く人達。姿も服装も変わっていく人達。それと、対称的な変わらないモノ。

変わらないモノが私で、歩く人達は私の周りの人達。そんなイメージが出来上がるのだ。 例えば、酷くいえばそんな感じ。

でも、私たちはモノではないので、モノから見た私はどうだろう。意外にも外見は新しくなる私を見て、新しくなっているように見えているのかもしれない。

刷新されないと変われないモノよりかは、私の方がまだ、マシなのかな。視点を変えるだけで案外、幸せだったりすることもあるの。

モノに感情はないけれど、感情がもしもあるとしたら、モノは今の私の感情なのかと思った数分。